■剣と体術(1)

剣と体術のあいだに関連があることをはじめて出版物で紹介したのは、鶴山晃瑞氏の『図解コーチ 合気道 』ではないだろうか。剣と体術がそもそも総合武術として一体のものであった戦国武術から、江戸時代を経て剣術も体術も流派武術として区々伝承された。そして幕末の危機意識のなかで、各藩では再び再統合がなされ生まれ変わった、こうした歴史的な検証のなか大東流合気柔術のほんとうの姿を検証した。そして剣と体術の具体的接点が『図解コーチ合気道』の「合気武道の理合」のなかに図解をもって残されている。

剣と体術の手ノ裡

鶴山氏は電電柳生新陰流研究会、朝日カルチャーセンターなどで教導したが、新陰流の燕飛之太刀の研究や大東流合気二刀剣に関わる口伝など重要な証言を言い残している。そこで知る剣と体のあいだの濃密な関係性は我々の想像をはるかにこえている。

古流の剣を再現するうえでも、「柔」として伝えられている体術について剣の要素を知るうえでも、鶴山氏は貴重な手がかりを残してくれている。

合気二刀剣の概念図

 

新陰流の世界  【参学円之太刀】

新陰流は上泉伊勢守(1508~1582年?)が、室町時代の末期、今から五百年程前に創始したもので、柳生石舟斎に伝えられ、柳生利厳、柳生連也、以来、連綿と尾張柳生に残りました。

長い年月のあいだに尾張では形の構成や遣い方に幾度かの変遷があり、そのためそれぞれの意義や原姿を求めながら稽古するなかで、古伝に思いをはせる喜びがあります。

柳生宗矩を経て、代々徳川将軍家に伝えられた江戸柳生の流れは、実技の承継としては失伝しましたが、『兵法家伝書』(岩波文庫)という、三代徳川家光将軍へ向けて書かれたとされる伝書でその内容を知ることができます。              

このようなカタチで私たちには貴重な伝承があるのですが、新陰流を学ぶうえでの本当の困難が、時代を隔てて現代に生を受けた私たちの側にあります。私たちが慣れ親しんだ言葉や先入観を通じてはなかなか実像が見えてこない、分らないからです。多くの型を学んでようやくまとまった印象、その世界観への愛着が生まれるのですが、そこまで到達するあいだは素直に熱心に稽古を繰り返すことが必要です。さき走ってスポーツの考え方にもとづく理屈や、勝敗・優劣などの価値観を優先したりすると、途中で挫折する、或は曲解したままで新陰流の本姿を見ることなく終わるということになりかねません。

このため入門を誓う入門者に新陰流の道案内の役を果たすべく(戒律と禅定と智慧)の「三学」の入り口として示される太刀(カタ)が『参学円之太刀』です。 これを無心に学ぶことからはじめるのが新陰流への近道だと言われています。

 

 参学「一刀両断」

    相手が真向に此方の頭を打ちくるとき、此方はその正中線

    まっすぐに踏み真向の太刀を被せ打つようにして合撃て勝つ

  

 参学「斬釘截鉄」

   互いに進み、我から高く相手の胸に付けるところを、相手は

   此方の小手を打たんとする、これを上げはずすに、又相手が 

   揚げたる腕肘を払わんとくるとき、逆勢に太刀を返し下し、

   打廃った相手の小手に乗り身をひらき腕を抑える      

      

 参学「半開半向」

   此方は右を先に平青岸の構え、相手が進み入って左小手を先打  

   せんとするや、小手を打たれるぎりぎりまで待って相手の 

   左へ開き相手の剣をまっすぐ超えてのど元を撞いて制する

     

 参学「右旋左転」

   互い青岸に対峙、此方が太刀先へつけるやいなや、相手が太刀 

   を巻き右拳へ打つを、剣を逆勢に外し左隅に足を踏み太刀に隠れ

   載り抑える (右旋左転の一部の動き)

       

 参学「長短一味」

   互いに青岸で機を伺い突かんとして突けず互いに身を開くや早、

   相手が額に詰めて打つを此方は剣を額に捧げ懸け小手を打つ

     

  

どうですか。参学円之太刀が少しイメージできるのではないでしょうか。参学円之太刀には多くの新陰流の教えが重なっていますが、他流を学んできた者に新陰流への道案内となる太刀なのです。 

 

 

 

   

 

 

 

新陰流 おのずからなる心法

柳生宗矩『新陰流兵法家伝書』では繰り返し「心」の問題に言及しているが、なぜかほどに心法がなぜ重視されるのだろう。

長いあいだ、剣の上手になるためには相手のこころの動きを観るうえで観想の術を練るための必要なのだろうと考えていたが、最近になってそうしたことではなく、より根源的な人間の無明に発した剣法上の極意ではないかと見直すようになった。

剣を手にした相手がどう動くかは、実際「無明」である。こう攻めてくればああ動こうといった見立てなどは通用しないものと思っていて間違いない。また無明は相手だけのものでない。己れ自身、応じてどう動くかは見極め難い。このことはだれでも経験できる。たとえば身を守らんとして我れ知らず身体を硬くすることは人間の自然な対応だが、新陰流では「居着」として厳しく戒める、居着けば即座に負ける道理だからである。しかしこの自縛の働きは自分で容易に克服することができるものではない。

ここに「斬り結ぶ刃の下にこそ身を置け」・・・という口伝がある。刀の下にすすんで身を置くことによってこの「自縛」の罠に陥ることを無くする具体的な心法の口伝だ。身を捨て即自としての己を闘え、そういう極限の心の解放を教えたものだろう。

相手が、己が、いかに測りがたきものでも、身を捨ててあれば浮かぶ瀬もある、・・・剣の闘いのなか無明の闇に臨む修業者へのはなむけの言葉でもある。

無明も己の光のなかにおけとした<随敵>の思想こそ、禅に造詣の深かった流祖上泉伊勢の境地のひとつとされている。

新陰流稽古会

◆新陰流の稽古を始めませんか?

 

上泉信綱が創始した由緒ある「新陰流」の稽古生を募集します。

  1.稽古時間帯は、

    平 日は   夜6時~9時

    土・日は、  稽古場の予約がとれる時間によって変動します

  2.連絡先            kageyukishiyo@gmail.com  090-9148-1479 (田中)

 杉並や世田谷の公共施設 (下高井戸集会所ほか)

 対照:20代〜60代 (男女を問いません)

 主催:尾張新陰流研究会 主催 田中影水

 武家の魂を形づくった新陰流の剣理を深く理解し、会員相互の研鑽を楽しみながら日本伝統の剣を習得したい人を歓迎します。当りのやわらかい袋撓(割竹を革袋で包みこんだ竹刀)を使用しますので安全に稽古できます。防具不要。はじめて古流武術を学ぶ人にも丁寧な指導をおこないます。


         


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新陰流の水車勢(左右):敵の奔流する勢いを巻き鎮めるように制する太刀姿